フィレンツェのブラックキューブの奇妙な事件
2026.02.23 更新 カテゴリ:コラム
アンドレア・ヴォルペ教授(フィレンツェ大学)によるセミナーを聞いて
2025年8月、フィレンツェの歴史的中心市街地に、突如として黒い巨大な塊が出現した。
旧市立劇場跡に建設された、米国資本によるホテルである。外壁は黒い金属板。過剰な高さとボリューム。
周囲の淡い黄褐色の街並みの中で、それはまるで異物のように屹立した。
フィレンツェの歴史的中心市街地といえば、ユネスコ世界遺産に登録された保存規制のかかった景観である。
そこに、既存の都市景観を無視した黒い箱がにゅっと立ち上がったのだから、市民の激しい批判を浴びたのも無理はない。
問題は単に「黒い」ことではない。都市の記憶と比例関係を持たない、その態度である。
ではなぜ、世界遺産都市フィレンツェに、このような建築が実現してしまったのか。
所有者である米国企業ハインズ社は、取得済みの許可証をすべて公開し、法的正当性を主張した。
手続きは適法だった。規制はクリアしている。しかし、それでも市民は納得しなかった。
この事件が示しているのは、法律だけでは都市景観は守れない、という冷徹な事実である。
規制は枠組みを与えるが、都市の魂までは保証しない。
では、歴史的都市構造への現代建築の介入は、すべて拒絶されるべきなのか。
フィレンツェにおいて、古い建築と新しい建築の共存は不可能なのか。
幸いなことに、答えは否である。
フィレンツェの歴史そのものが、対話の歴史だからだ。
ブルネレスキによるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームも、建設当時は大胆な技術革新だった。
既存のゴシック空間に対する、前例のない構造的挑戦である。
しかし今日、そのクーポラは都市の象徴となり、風景の中心を担っている。
歴史とは、停止ではない。更新の積層である。
ヴォルペ教授は、サン・ロレンツォ聖堂(メディチ家礼拝堂)に増築された公衆トイレの事例を紹介した。
モダンな機能の介入でありながら、ボリュームは抑制され、素材は既存建物と同じ石材を用い、
デザインは周囲と対照的にシンプルな幾何学を採用した。
工事中に発見された旧城壁の断片は、あえて展示として組み込まれた。
新旧が調和するか否かを分けるのは、造形の奇抜さではない。
既存建物への敬意と周囲への配慮であると思う。
フィレンツェにおいて、古き建築と新しい建築が共存することは可能だ。
歴史的都市構造への現代建築の介入は、放棄されるべきものではない。
しかしその成立には、透明なプロセス、都市文脈への深い読解、そして市民との共感の形成が不可欠である。
それらがあってはじめて、新しい建築は都市の「異物」ではなく、次の世代の「記憶」となり得るのである。
歴史的中心市街地に新たな建築を設計するとは、形態をつくることではない。
都市の時間に参加することである。
ブラックキューブの事件は、そのことを静かに、しかし痛烈に問いかけている。